2016年2月22日撮影
◆別名:
上野上村城
◆所在:
豊田市上郷町藪間
◆交通:
安城市内で国道1号線と県道76号線が交わる尾崎町柳田の信号交差点を北上し、4キロ程進むと県道239号線と交差する上郷町1丁目交差点を右折する。
650m程進んだ橋の手前の北側に上郷区民会館があるが、その裏手に護国神社が建てられている。
区民会館の正面に城の看板などが有る。
◆歴史:
応仁年間に戸田宗光によって築かれた城。
宗光は文明7年(1475年)に次男の家光を残して田原城へと移り、その後、家光も田原へと移って行った。
明応2年(1493年)上野城の阿部孫次郎は寺部城の鈴木氏、挙母城の中条氏、八草城の那須氏、伊保城の三宅氏らと連合し約3,000騎の兵を持って岩津城を攻撃する。これに対して安翔城の松平親忠(※注1)は2,000騎を率いて出陣。井野田の地で連合軍は敗れ去り、松平家に服属。上野城は松平信定が在城する事になる。
松平信定は、松平親忠(宗家4代目)の息子、松平長親(宗家5代目)の三男である。家督を継いだ兄の信忠(宗家6代目)は人望が薄かったため、三男の信定を後継に望む声も多かったが、信定は長親の弟(信定からすれば叔父)親房の家へ養子に入ったため、家督を継ぐ事ができなかったと言われている。
このため、これまで敵対していた尾張の織田信秀の妹を室に迎えるなど、宗家に反する姿勢が目立つようになり、天文4年(1535年)に尾張の守山に遠征中の清康(宗家7代目:信忠の嫡男)が家臣の阿部正豊に暗殺(森山崩れ)されると、清康の息子である竹千代(後の広忠:宗家8代目)が幼少と言う事もあり、居城の岡崎城から追い出して宗家押領を図るが、東条城の吉良氏や駿河の今川氏の後ろ盾を得た広忠は、信定が岡崎城の留守居役として指名した松平信孝(宗家7代目である清康の弟)らを味方に引き入れるなどして宗家の地位を守る事に成功する。
この一件で信定は上野城を追われ、桜井城へと蟄居する事になる。
信定の代わりに上野城に入った酒井忠尚だが、三河一向一揆の際には一揆方に付き、松平元康(後の徳川家康)に敵対。一揆敗北後は駿河に逃れたと言われており、その後は上野七人衆が在番で城主を務めたと伝わる。
※注1
看板には親忠と記載があるが、実際には親忠の息子である長親、もしくは孫にあたる信忠の誤記と思われる。親忠は永享3年(1431年)に産まれ(永享10年(1438年)誕生説も有)元亀元年(1501年)に没している。
井野田の戦い当時は存命ではあるものの、年齢は60歳前後で当時は高齢の部類に入り、戦場での働きは難しいと思われ、なおかつ、親忠の嫡男である長親もこの時点ではすでに隠居して、家督を息子である信忠に渡している。
井野田の戦いには信忠が総大将として出陣しているが、実際は長親が実権を握っており、戦は長親主導で進んだようで、三河物語では『信忠は不器用者(統率者としての器量が無い)である』と評されている。
◆現在:
上野護国神社境内から、西側の公園辺りまでが城跡と言われている。
諸国古城絵図に書かれた上野城の縄張り
徳川四天王の一人、榊原康政誕生の碑が立っているが、上野下村城にも同様の碑が残されているため、どちらの城で産まれたのかは不明。